2014年12月31日

異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦 異文の愉悦


 泰斗池田亀鑑の「原作者の原手記に可及的に最も近い本文の再建」という原本遡及主義の池田文献学に対して、終生のライバルたる山岸徳平の薫陶を受けた、中田剛直による「後世の、複数系統本文の混態現象や、説話的改作本文までを射程にした、物語史のジャンル横断的なテクスト享受史論を展開した」ことで「異本文学論」の前提を整備したと評価された『狭衣物語全註釈 全10巻・別巻1』(おうふう、1999年刊行開始)の「研究成果と実践は、第一類本系諸本の再建本文を根幹本文とし、主要異本の全覧をも試みたの完結を待って結実することになるはずである。」(【書評】三谷・狭衣学の文献学史的定位の問題-三谷榮一『狭衣物語の研究(伝本系統論編)』「日本文学」2000.09.10)という

 「異本文学論」と池田亀鑑ら泰斗のいう「文献学」を素人的に比較すると、「異本文学論」という表現の方が素人でも馴染めるかも知れない。「異本文学論」の目的が、「成立期の問題を経て、さらに後世の読者がどのように物語を読んだのか?」というのなら尚のこと身近になるかもしれない鑽石能量水 消委會


 それに対して、今回の片岡利博の「異文の愉悦」の視点はそれとも違うようだ。古い物語には、写本が多く残存し、異本・伝本が伝えられている。源氏物語や伊勢物語にも内容の異なる種々の異本が存在しているが、源氏物語では大島本、伊勢物語では定家本と、「最善本」と位置づけられ、研究はその「最善本」を対象として行われているのが現在の物語研究の状況であるという。氏は「三谷の研究成果が世に出て以米、狭衣物語においても本文研究はほとんど行われなくなり、『日本古典文学大系狭衣物語』の研究に収斂していったのは、そうした学界の趨勢の反映以外のなにものでもない。」と論断し、「活字本の形で提供された『最善本』だけを研究対象としている現今の物語研究に対して異を唱えるものである。平安時代の著名な物語はどれも、伝来のプロセスで内容の異なる種々の異本を生み出してきた。それは平安時代物語というジャンルの重要な特性のひとつである按揭套現


 したがって、この特性を無視し、平安時代物語を近代の小説などと同じように取り扱う研究は、物語研究のあるべき姿ではないと私は考える」といい、「原本文への遡及を目的にしてきた従来の本文研究とは袂をわかち、現存するさまざまな異本の本文をどれも等しく物語本文として認めた上で、種々の異本の本文が相互にどのような関係をもっているかを考察」することで、「現在の学界に蔓延してしまっている三谷栄一・中田剛直両氏の本文系統論についての誤解を解いておく必要があると考え、第一章ではその点に問題を限定して詳しく論じておいた。」という。


 第二章は、「もろもろの異本の本文を相互にどう位置づけるか」、第三章では、「深川本狭衣物語が、平安時代末期までに後人の手によって作られた合成本文にすぎないということ」、


 第四章では、「異本間で、文章のみならずストーリーまでが遠っている場合があることを明らかにし、第五章、第六章は、「三谷・中田両氏の本文研究には慈鎮本と九大細川本という重要な本が組み入れられていなかったために、誤った結論になっていること、したがって、狭衣物語の巻三・巻四の本文研究はもう一度はじめからやり直す必要がある」という。


 第七章では、「狭衣物語の中から、複雑な本文対立の生じている九箇所をピックアップし、その箇所の諸本の本文が相互にどういう関係にあるか」、その結果、「基本となる二種類の本文が存在」し、「その二種類の本文を合成することによって派生した数種の本文が存在すること」なったとしている。


 第八章は、「校訂本だけを用いて行われている現行の引用論や典拠論は、方法上あまりにも多くの問題がある」という。


 第九章では、「現在の青表紙本一辺倒の源氏物語研究のありようを批判的に論じてみた。これが現在の私の研究の到達点だと思っている。」と結んでいる。
ラベル:異文の愉悦
posted by oldhh at 12:38| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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